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企業情報

鹿児島市にあるシステム開発企業「有限会社ソフトスタジオ」のコーポレートサイトです。

 

Company

代表ご挨拶

ごあいさつ

代表藤本の写真

2019年、今年で20年目となりました。
20年目の節目となるよう、これまでお世話になった方々への感謝の気持ちを忘れず、さらなる飛躍の年にしていきたいと考えています。
まずは、社内規定の見直しです。働き方改革に柔軟に対応し、少子高齢化の時代にマッチした働き方ができるよう工夫していきます。また、人事評価制度も一新し、より効率よく、前向きな姿勢で業務を遂行していきます。業務面ではニアショア開発の更なる拡大を目指し、人員拡大を図っていきます。
その他、今年はボランティア活動などの野外活動などで地域貢献も視野に入れ精力的に活動していく所存です。今後ともソフトスタジオを宜しくお願いいたします。そして、さらなる発展に期待してください。

合言葉は『品質・挑戦・創造』

品質・挑戦・創造のイメージ図

創業以来、『品質・挑戦・創造』を合言葉にやってきました。
フリープログラマーとして3年ほど実績を重ねたあと、仲間3人で起業。全員の生活を守っていかなければならないと思うと不安でした。それでも思い切って、勇気を出し企業しました。これ自体が『挑戦』だったと思います。フリープログラマーをしている中で、給与未払い、残業代未払いといった会社を目の当たりにしてきました。起業するにあたり、そういったことで、他人様に迷惑はかけぬよう、しっかり月々の給料が支払えるよう、誓いやってきました。おかげさまをもちまして、このようなことは一切なく、無事にやって来れました。多くの方に感謝しないといけません。ソフトウェアを製作するにあたり、『品質』を守っていくこと、良いものを収めることが肝心だと。出来立ての小さな会社です。チャレンジ精神を忘れてはだめだと思い『挑戦』を。それらをしっかり守っていくことで何かを創造できたらと夢をもちながら『創造』の3語を合言葉にしています。 『品質』 モノづくりをするうえで重要なことだと思います。ただ、これを守っていくには、まず、人間的にも、経済的にも、健全な環境と精神を持ち、真面目に前向きに取り組むことが大事だと思っています。良いモノづくりと共に健全な人間性も培うコミュニティーでありたいと思います。
『挑戦』 小さな挑戦「企業」から数年、これまで給与の未払いなどもなく続けてこれました。多くの皆様に感謝しつつ、『挑戦』を続けていきます。
現在、力を入れているのはニアショア開発です。ニアショア開発とは、海外へ業務を委託するオフショアに対してできた言葉で、国内の地方に委託することをこう呼んでいます。最近は、海外の人件費の高騰、言葉の壁などによる品質の悪さなどからニアショアが見直され注目を浴びています。先日開催された「ソフトウエア&アプリ開発展(東京ビッグサイト)」での一般社団法人ニアショアIT協会のブースには来場者が100社以上もあったそうです。 地方での開発は以前から試みられていたのですが、最後は、東京で・・といった結末でした。以前は、これほど高速インターネットも普及しておらず、航空機代も高価でした。それがニアショア開発(分散開発)を断念する要因の一つだったと考えます。現在、東京の企業から数名が当社に常駐され開発を行いながら、拡大の準備をされています。当社は、これを大きく発展させ、地元 鹿児島の皆様に貢献できるよう挑戦を続けていきます。 『創造』 挑戦し続けるさきに・・と思っています。 これまでよりも良い会社となるよう健全な精神を持ち、『品質』を保ちつつ、『挑戦』し拡大することで社員の豊かな生活の礎となるよう努めます。是非、当社に注目してください。誠心誠意、頑張って行きます。今後とも宜しくお願い申し上げます。 尚、若い力、未来のリーダーを募集しています。ともに『挑戦』していきましょう。

代表経歴

•1963年8月 奄美大島の名瀬市(現 奄美市)生まれ しし座 A型(^^)  父方は鹿児島。母方は奄美大島。
•4歳くらいで鹿児島市へ移住。
•草牟田幼稚園 ⇒ 草牟田小学校 ⇒ 城西中学校 ⇒ 鹿児島県立鹿児島中央高等学校
⇒ 鹿児島大学農学部農学科
★中学、高校ではバレーボール部(現在はできないですが、バレーボール大好き!)
•1987年 日本ビジネスコンサルタント(現 日立システムズ)入社
•1995年 同社退社
•1999年 ソフトスタジオ設立
★趣味:ゴルフ ガンプラ 釣り 映画 カラオケ(ちょっとずつ・・)
★座右の銘『鶏口牛後』

業務経歴

業務内容開発(始)開発(終)機種・OS言語・DB等
事務処理分野開発CASEツール開発 1987年5月 1989年3月 UNIX C
公団給与システム 1989年4月 1989年6月 HITACHI
MIOS
COBOL
ファイル転送プログラム保守 1989年6月 1990年4月 HITACHI
VOSK
PASCAL
リモート端末プログラム保守 1990年4月 1992年7月 HITACHI
VOSK
PASCAL
ファイル転送プログラム開発 1992年7月 1996年12月 UNIX C
VB
LPG販売管理システム保守 1996年1月 1996年4月 Win3.1 Betrieve
CrystalReports
原子力発電所放射線管理システム 1996年5月 1996年9月 UNIX
DOS/V
C
LPG販売管理システム 1996年10月 1997年9月 Win95 VB
Oracle
PLSQL
音声合成ライブラリ開発 1997年10月 1998年4月 Win95 VC++
LED生産管理システム 1998年4月 1999年5月 Win95 VB
Oracle
販売管理システム 1999年6月 1999年9月 Win95 VB
Oracle
LED生産管理システム 1999年10月 2000年3月 Win95 VB
Oracle
文書管理システム 2000年4月 2001年3月 Win2000 VC++
販売管理システム 2001年3月 2001年6月 Win98 VB
Oracle
建機リース販売システム 2001年7月 2001年8月 Win98 VB
Oracle
ホームページ作成 2001年8月 2001年9月 Win98 Dreamweaver
鶏肉製品トレーサビリティシステム 2002年10月 2003年2月 Win2000 VB
Oracle
販売管理システム 2003年10月 2003年12月 WinXP VB.NET
ネット販売システム 2005年2月 2005年4月 WinXP ASP/VB
旅費管理システム 2006年1月 2006年2月 WinXP ASP/C#
卸商品情報登録システム 2006年4月 2006年5月 WinXP
Win2000
PowerBuilder
Oracle
入雛シミュレーションシステム 2006年5月 2006年6月 WinXP VB.NET
Oracle
養鶏管理システム 2006年12月 2007年3月 WinXP VB.NET
Oracle
紹介所販売システム 2007年4月 2007年6月 WinXP VB.NET
Oracle

[1]事務処理分野開発CASEツール開発

大学卒業後、入社し初めて配属された部署での業務でした。当時は、今のようにDOSV機というメーカーに依存しない汎用的なPCがなく、汎用機といえばスーパーコンピュータでした。そこへ登場したのがUNIX、各社ワークステーションという肩書きでUNIX機を製造・販売していました。当時は、メーカーごとにそれぞれの独自のマシンでしたのでしょう。OSもそれぞれカスタマイズされたUNIXでした。そこで、当時ののIPAという団体が、UNIXをベースとした日本各社共通で使えるΣOSなるものを作ろうと計画したものと記憶してます。その中で、COBOLのソースコードを作成するCASEツールの製造に携わりました。C言語で印刷用共通ルーチンの開発、CURSESを使った画面制御ルーチンのメンテナンス。画面情報の印刷部分を担当しました。よい先輩たちにめぐまれた、よい環境でした。このころは、各社独自にUNIX Windowシステムを構築していたため、ΣOSは、標準のWindowシステムを持たず、とりあえずCURSESを使用した画面制御を簡易的に作ろうという事にになったらしいです。(今では?????ですが・・・)このとき、コード体系がUJIS(今ではなんというのかな??)を使用するということになったようです。このUJISというのが、半角カタカナを2バイトコードで定義していてCURSESで画面を制御してカラムを数えていたのですが、半角カタカナのせいでカラム数とバイト数が一致しなくなり、苦労した覚えがあります。現在のVBではUniCodeなるものを使用していて日本語はすべて2バイトコードで、当然、文字数、カラム数、バイト数はバラバラですが・・。このUJISの問題点を新人研修論文にしOHP(昔はOHPでした・・)で発表しました。

[2]公団給与システム

C言語以外、UNIX機以外にはじめてふれたJOBでした。COBOLで給与特別手当の部分を担当したと記憶しています。当時、日立のオフコンでMIOSというOS下での作業でした。あまりプログラミングの出来ない私たちに先輩がとってもきびしくトレーニングしてくださったと感謝しています。

[3]ファイル転送プログラム保守

採用時に将来、鹿児島の方での分散開発要員として入社していた私は、鹿児島の要員を集結し、将来有望な通信関連の技術を習得するということで、部署を異動しました。当時の日立の新しいOS VOSKでファイル転送プログラムのパッケージの保守を担当することになりました。ファイル転送プログラムには、伝送手順(プロトコル)としてDES手順、JCA手順、全銀協手順、HNA手順(日立のHDLCかな?)を機能として持っていました。その中で、私は、DES手順の保守を行いました。特定回線、公衆回線でのベーシック手順でのファイル転送です。ENQとか、ACKとか、STXとか、ETXとかです。お客さきの営業やSEから電話をうけて設定の対応や修正対応パッチの作成(アセンブラコードの修正など・・)、機能追加、個別対応などを行いました。お客様のところへ出向き対応を行うこともありました。プロトコルに関しては、JCA手順、全銀協手順のプログラムも把握するようになり、全般で対応を行うようになりました。

[4]リモート端末プログラム保守

リモート端末プログラムとは、RJE(Remote Job Entry)システムのことです。ホストへJOBコマンドを送信し、結果の帳票データを受け取りプリンターへ出力するというものです。(いまはあるのでしょうか?)当時保守担当が決まらず、なぜかわかりませんが、配属されたばかりの新人が対応に追われていました。先輩方の態度に疑問を持った私は、当時に係長に進言し担当にさせてもらいました。おかげさまで、お客様のところへ出向く機会や対応する機会が増え、ホストなどの関連部署などとの連携、打合せなどで社内を走りまわり充実した日々をすごさせていただきました。

[5]ファイル転送プログラム開発

UNIX全盛期になりつつありました。ファイル転送プログラムもUNIX対応版を作成することになりました。そこで、UNIXの知識も多少ある私は、基本設計~製造まですべてに携わりました。4名ほどのチームが4チームほど出来たのでしょうか?彼らとの設計書レビュー、工程管理、書類作成で一日が終わりという日々が続いたのを記憶しています。まだまだ自分がプログラムを作るほうが早いと思っていたので、少しストレスの多い日々でした。上司からは「プログラムを自分でつくらないように」と 言われ意味が解らず、「イライラ」と格闘する時代でした。当時、日立がヒューレットパッカード様とOEM契約を結ばれたみたいで、初めてHP様のUNIXマシンを使用しました。OSの設定、インストール、LANの設定等も行っていました。はじめてのことばかりでした。当時のLANは、イエローケーブルでしたので、今みたいに楽でなかったのを覚えています。また、X端末なども使用し始め、IPアドレスの設定などにDHCPも知らず苦労した覚えがあります。そのほか、NFSを使用したり、ユーザ・グループの設定、権限の付与など色々いじり、マシンが立ち上がらなくなったこともありました。今では、なにもかも、とてもよい経験をさせていただいたと感謝しています。

[6]LPG販売管理システム保守・製造

鹿児島での分散開発は、一旦中止になり、メンバー全員に東京への転勤命令が出ました。UNIX版ファイル転送プログラムの設計は、東京で行い、開発は鹿児島で行っていました。分散開発、いまではオフショア開発とかニアショア開発とかいうのでしょうか?この手の開発形態での開発も少しは経験してノウハウを身に着けているつもりです。で、中止になったので、悩んだのですが、退社しました。退社して3ヶ月ほど、覚えたばかりの、魚釣りにいそしんでいたのですが、先に退社された大先輩上司から電話があり、地元の中小企業に就職することになりました。このころは、DOSVマシンが市場に出回り、Windowsが3.1という中途半端なころでした。Basicで作成されたLPガスの販売管理システムの保守とその他雑用をさせられました。旧職場ではどちらかといえばミドルウェア的なシステムを構築していたのでアプリケーションは、初めての経験でした。顧客の業務を理解しシステムを構築しなければならない、顧客のニーズをつかんで仕事をしなければならないと、このころは思わなかったかも知れませんが、新しい分野への出発でした。このころは、前職場に8年近くいて、前職場のやり方、作業の進め方に染まっていて、新しい職場のやり方、作業の進め方になじめず(人になじむのはOKだったのですが・・)なかなか作業の進捗も悪く迷惑ばかりをかけたと思っています。やはり、それぞれの会社メーカーで文化があり、転職の難しさみたいなものを感じたときでした。また、もともとPCの趣味があってこの世界に入ったわけでもなく、PCを触るのもはじめででした。このころは、Windows3.1でDOSVのアッパーメモリの制限やハードウェアインタフェースもSCSIが主流でカードの挿入時にIRQがバッティングするなどSCSIカードやLANカードなどカード1枚増設するのに面倒な設定を行っていました。これらのこともよい経験になりました。さらにこのころにMicrosoftは、VisualBasic、Accessなどをリリース、CPUはPentium、ブラウザは、NetScapeという時代でした。ここでAccessのプログラミングというのがはやった時代でもあり、Accessは簡単にプログラミングが出来るので、ちょっとしたでもプログラムを作成してと営業にたのまれました。しかし、Accessでプログラミングしていくうちにこれは大変だと思いました。この後Accessで多くのアプリケーションができたのでしょうが、どちらも苦労したお話を多く聞きました。ソースコードを見慣れている私にとっては、大変解りにくい保守しずらいシステムができると思っていました。のちにAccessで出来たシステムをVisualBasicで再構築する作業にいくつも出会いました。
9ヶ月ほどで就職した会社は、退職しました。私をさそってくださった大先輩が、独立し会社を設立するので着てくれとたのまれたからです。短くても共にすごした新しい仲間とさよならするのは、後ろ髪を引かれる思いで一杯だったのですが、もともと先輩上司に誘われたのがきっかけなのでそれを理由に退職しました。そこでまた、LPガスの販売管理システムを構築しました。言語は、VB、DBはNetware Btrieve 、帳票系はCrystalReportを使用しました。ところが、会社を立ち上げたのはいいのですが、やはりプライドだけでは食っていけず、先輩上司にまた先輩が社長をされていたのですが、苦しそうだったので、「1名は下請けでも・・」と進言したのですが、聞き入れられず、退社することになりました。会社運営、設立、起業の難しさを学んだときでもありました。

[7]原子力発電所放射線管理システム

当時就職先は、一杯あったのですが、やはり、うちの父が家具職人としての小さな町工場をしていたせいもあり自分で起業しようという思いはあり、フリーのプログラマーになりました。母親の知り合いがITの企業を営んでおり、そちらから仕事をいただき単身東京の方へ3ヶ月ほど赴きました。仕事の内容は、府中の東芝様で九州電力玄海原子力発電所の帳票出力や汚水タンクの水位の表示プログラムなどを修正変更しました。言語はCで、SUN のソラリスとDOSVでした。慣れているCの上にファイル転送システムを手がけているときとは違いプログラムを言われたとおりに作っているだけなので、こんな楽なことはないと感じました。現場調整のときは、人の作成したプログラムのバグ取りをたのまれたりしたのですが、過去に経験したことがあり、みなてこずっているバグもたやすく修正が出来た覚えがあります。このときは、自分の力も少しは世間で通用するのだと思いました。

[8]LPG販売管理システム

玄海原子力発電所放射線管理システムの作業を終え、鹿児島に戻りました。このとき、原発のJOBも追加作業があるので再度きてくれないかと依頼があったのですが、私の受け元の会社が断ってしまい玄海との縁は切れてしまいました。(そのときの担当の方とは今でも連絡を取りあっていますが・・) またLPガスのシステムに携わることになりました。前回LPガスの経験があるという理由でした。
ここでは、NEC製のハイディーターミナルとの通信でEBCDIKコード⇒シフトJISコード⇒UNICODEの相互変換に苦労しました。でも出来ました。また、Oracleで月次更新データの複数テーブルの同期を取るのに何度も徹夜した記憶があります。Oracleも当時は、バージョン7で、さまざまな問題があり、性能も悪く、また、PCも今みたいに性能はない、メモリーも小さなころだったので、苦労しました。もう少しOracleの知識があればもっとすんなりいったのでしょうが・・と今では思っています。このとき、LAN上のトラフィックを抑えるためかどうかPL/SQL(Oracleでのストアードプロシジャ)を学びました。いまでもよく使われているようですが、まったくデバッグのしにくい効率の悪い手法だと感じているのは、私だけでしょうか?いまは、CPUもLAN の回線速度も速いので使わないでいいものならば使わなくてもと・・思っています。効率、保守性を考慮しても使用する多大なメリットがあるのならば、どなたか御教授してください。

[9]音声合成ライブラリ開発

徹夜続きの作業につかれた私は、保険証も持っていなかったので、ちょっと就職しようと思いました。音声合成ライブラリの開発を担当することになりました。もともと、この会社には音声合成のライブラリは存在したのですが、Miscrosoftの提唱するCOMインタフェースをもち、Microsoftの標準インタフェース機能を持ったものを作成するという感じのものでした。まず、Microsoftのインタフェース仕様書を100ページ程度を和訳することから始まりました。英語はそんなに嫌いではなかったので、がんばって和訳しました。それからCOMインタフェースでライブラリ作成をおこないました。 COMってなにという感じで書物を読み、なんとか作成できたのですが、あとからマルチスレッドへの対応がまずく問題になったようです。当時からあったMicrosoftのATLを使用すると簡単に出来たのですが、そのときは勘違いしていたのかATLの使用はMicrosoftの特別なアーキテクチャであり、使用していいのかの判断できず知らず知らず使用をあきらめていました。後からのご担当の方、ご迷惑をお掛けしました。
ここでも、まじめに自身をもってプログラミングにいそしんでいたのですが、契約社員であり半年で正社員として採用してもらえず、契約社員で再契約といわれたので、辞退して退職しました。私は、このころは日立にいたころからは、すっかり殻をやぶって臨機応変にその場所での作業に合わせてやることを覚えていたつもりだったのですが、当時のその会社の社長から、うちは日立みたいにマンモスでないから・・・・とか色々いわれました。別に日立にいたからといて日立のやり方をごり押ししている訳でもなく、特に何も言っていないのに何かの偏見を持っているのではという感じでした。あと、その社長は、喫煙をしない方でした。そのころは、今みたいに禁煙ブームではなく普通に喫煙をする人が多かったのに、喫煙する間は、仕事してないという見られ方をしたようです。とにかくこんな感じの社長の下で正社員になってもしょうがないし、こんな形で力も評価されては、面白くもなかったので、やめました。

[10]LED生産管理システム

またフリーに戻りました。現在、一緒に会社を経営しているS君との出会いもこのころです。LEDを生産している工場の生産管理システムのJOBがあるということで、同じくフリープログラマーのS君といっしょに作業を開始しました。これまでUNIXのInformixで作成されていたプログラムをWindows95、VisualBasic、DBはOracleで焼き直そうというものです。各工程での生産実績、検査実績の入力および管理投票の出力というシステムです。現場の作業員が実績を入力していくので、よりシンプルで簡単な入力システムにすることになりました。肯定コードや担当コード、設備ンコードなどは可能な限りバーコード入力です。それでも本番となると、現場の作業員の方々のミスやこちらのミスもあり、1,2週間程度、現場にはりつき工場内を走りまわったものでした。最初はおおくの人が触れるものなのでいろいろと不平不満もあるのですが、しばらくするとなれてきて安定してくるものです。最初でこれはダメだという印象と性能的なイライラ感を取り除いておくことがいいと感じました。

[11]販売管理システム

ここでは、文具の卸問屋を営む会社の販売管理システムを作成しました。やはりこのころは、旧システムはオフコンで動いており、それをWindowsにしていこうというものでした。このころ作成した消費税計算のロジックや日付のチェックのロジックなどは現在でも使用できる物であり、知的財産として弊社に残っています。いまでは、販売管理システムの作成は、かなりのスピードアップになっていると思います。

[12]LED生産管理システム

このころS君らと会社を立ち上げ、法人化しました。ちょうどこのころ、LED生産管理システムを受注していた会社が、鹿児島での業務を撤退することになり、弊社での初の受注と共に会社設立を行いました。このころは、実入りもまだなかったので、私の自宅を作業場としてみなで交代で晩ご飯を作りながら、夜遅くまで作業をしていたものです。

[13]文書管理システム

LED管理システムだけでは、実入りが少ないので、私は、出向して文書管理システムのメンバーとなりました。文書管理システムは、もともと光ディスクで動いていたものをWindowsで作成しなおしたものです。その中でWEBでの文書検索表示で使用するサーバーサイドのDLLを作成しました。インターフェースは、ATLを使用したCOMインタフェースでした。

[14]販売管理システム

社に戻り、葬儀社の販売管理システムを手がけました。富士通 MRDBで構築されていたシステムをVBにすべて書き換えました。顧客マスタ登録、見積書作成、売上伝票作成、請求書発行および月次帳票の作成が基本機能ですが、法要・年季一覧などの営業用帳票の出力、顧客情報には、喪主親族等の住所などを追加し、葬儀屋さんの業務を学ばせていただきました。

[15]建機リース販売管理システム

次に建機のリース行を営む会社様のシステムを手がけました。これは商品マスタに特徴のあるシステムでした。見積上のリース日数から実際の使用日数をカレンダーで管理、請求書を発行するというものです。また、リース機会の在庫状況、借入仕入状況の確認も出来るようになっています。

[16]ホームページ作成

これまでVBの作業が続いていたので、少しホームページの作成の勉強をしました。Dreamweaver,Fireworksで作成、Javascriptを使用し命日を入力することで法要・年忌の一覧を表示するプログラムを作成しました。デバッガつきの開発環境になれている私にはJavascriptの開発の効率の悪さを感じました。また、ブラウザによりコーディングを区別する必要もあり多様するには十分注意が必要であると思います。文書管理システムのときもWEB系の開発でしたので、MACなどでの確認作業も十分行う必要があると認識しました。また、Javascriptなどプログラミング作業には慣れているのですが、ホームページのデザインは、全く脳の別の箇所を使用するものだと感じました。デザイン感覚というものを磨く必要があります。デザインイ関しては、全く自身がありませんが、四苦八苦しながらがんばっています。

[17]鶏肉製品トレーサビリティシステム

鶏肉製品の製造を行う工場の販売・出庫計画⇒生産計画⇒製品情報取得(トレーサビリティー番号取得)⇒トレーサビリティー番号印字⇒入庫⇒出庫⇒出庫伝票、納品書印字という一連の工場生産管理システムを構築しました。1日に50000羽の鶏を解体する工場でむね肉、もも肉、手羽先など部位ごとに生産者情報、投薬情報などのトレーサビリティー情報を保持、入出庫の在庫情報を保持します。企業コンプライアンスの遵守に貢献しています。またこのシステムは産業用インクジェットプリンターを使用し、袋詰めと同時に袋へ生産情報トレーサビリティー番号とバーコードを印字することを実現しています。また箱詰め時にもバーコードを印字し入出庫情報を取得する事を実現しています。RS232Cシリアルポートを通してインクジェットプリンター野制御を行っています。インクジェットプリンターとの連動テストを行うためにテスト繰り返し、データバックアップ、代替用PCとタンデムで1日6万件ものデータを保持しながら今でもこのシステムは稼動しています。

[18]販売管理システム

そろそろVBを卒業して.NETの世界へということで自社の販売システムを.NETで作成しました。ここで色々な問題点を洗い出し、VBで作成された自社の共通ルーチンを.NETで作成しました。また、Oracleのテーブルクリエート定義を読み込みIO(入出力)を行うソースコードを生成するツールを作成していたのですが、これのADOに対応した.NET対応版を作成しました。このツールは、テーブルに対してのInsert文やUpdate文を手書きする必要がなくなり開発効率のアップに随分貢献してくれました。共通ルーチンは、Simple Is Bestの思想のもと1つのクラス、メソッドにおおくの機能を取り入れることなく単純な日付変換やメッセージ出力、消費税計算などのCoreなものを共通ルーチンとして保持しています。これらのルーチンは、もう10年以上もロジックをけることなく弊社共通ルーチンとして生き続けています。

[19]ネット販売システム

さらに自社で中古ビデオの販売を行おうとASPでネット販売システムを製作しました。.NETでのASPの特徴を捉えコードはVBで書きました。IIS、ASPの環境変数、及びそれにまつわる環境定義等を行うことで、プログラムの作成には、そんなに手間を取られることはありませんでした。先に作成した共通ルーチンもCoreな物ばかりなのでASPでも問題なく使用できるものがほとんどでした。

[20]旅費管理システム

ASP/C#である企業の出張旅費の管理を行うシステムの作成でした。C#もはじめての言語でしたが、C、C++を知っており文法的には同じなので、そう苦もなく習得することが出来ました。VBとも際も把握できましたし、よい経験になりました。言語を変えたときは、最初、コーディングしているときに混同してしまうこともありますがご愛敬です。久しぶりに他社様の下請け的なJOBを行い勉強になりました。また、共通ルーチンなどは作成してあり、楽にプログラミングをすることができました。さらに、DBへのアクセス方式の規定なども独自の方式で行われておりよい勉強になりました。

[21]卸商品情報登録システム

これは、商品卸商社が商品情報を共有するためにこしらえられたシステムだったと理解しています。(少し?)これもマタ初めてPowerBuilderという言語を体験しました。PowerBuilderの1990年ごろにはやった言語だったと記憶しています。このころに作成されたシステムの追加変更作業でした。PowerBuilder初めてということで書物などを探したのですが、もう既にそのような書物は市販されておらず、ようやくネットで1冊てに入れました。それから少し勉強したのですが、PowerBuilderの作りになれずに、これは苦労しました。といっても、すぐ慣れましたが・・・。少しVBと似ていて少しAccessと似ていて、今では非常に中途半端な言語であると感じました。AccessやPoweBuilderは当時大量にソースコードを書く必要がないから使われたかどうかは、わかりませんが、私にとっては、クラスやメソッドのIOが解りにくく、ブラックボックスの多い、特徴をつかむまで時間のかかるものだと感じています。Accessも同様です。そのためしばらく移植性ということでCが多様された時期もあるのでしょうが、今でも移植性を考慮したプログラムの作りにしているところが多く見受けられるような気がします。しかし、ハードウェアの性能やミドルウェアの使用、インタフェースなどは時代とともに変化しています。古い資産を流用しすぎると性能や品質に問題が出て改修できなくなるケースも少なくないのではないでしょうか?そのハードウェア、ミドルウェアの性能を考慮してデータベース設計やテーブル設計を見直し、言語にあったロジックを作成し、陰気に作成することが効率アップ、品質確保につながることもあると思います。

[22]入雛シミュレーションシステム

またVBに戻りました。これは、養鶏業で、鶏舎に雛を入れたり、鶏を出荷するという繰り返しを、複数農場をローテーションさせ自動で作成するものです。鶏は、生き物ですので、自然の条件に左右され、、突発的な事故で生きたり死んだりするもので、その度に駆使して計画を書き直す必要がありました。プログラムでもあいまいな条件を頼りにさまざまなオプションをつけ対応しました。それでも人間のあいまいな判断力に到達するにはまだまだという感じでした。これからは、ある程度の条件で推測が行える、AI的プログラミングが益々要求されていくのではと感じたJOBでした。ここを追求していくのもかなり面白いと感じています。

[23]養鶏管理システム

これは何年か前フリープログラマーをやっていたころに、少し手がけた事があるシステムでした。と言っても少し画面仕様書を見た程度でしたが・・。このころのこのシステムは、VB4、Oracle7で作成されたものです。このころのOracleにはOOO(OracleObjectforOLE)などもなく、Oracle7の制約も多く、ハード、ソフトの性能的にも問題が多かったと感じています。が、製造する人たちを見ていたのですが、やはりそちらにも問題があるように思えます。結局その当時は、性能品質面でもお客さまの満足いくシステムは構築できず、お客様も精算書を数枚、出力するのに40分要するシステムを使い続けていらっしゃいました。それを再作成することになり、VB.NETで作成しなおしました。全て新規作成で行いました。
新規作成時に導入検証、本番ともなると2、3日徹夜で、なかなか数字も合わないなどで、お客様も嘆いておられましたが、「今回はそんなことはしません。」「徹夜などしません。させません。遅くとも20時には帰ります」と言って、作成しました。実際、私たちも、お客様も徹夜などせずにシステムを立ち上げ運用に至りました。これまで培ってきたノウハウも多分にあると思います。お客様にもある程度満足していただいています。やはり[21]で記したことは実践するべきであると思っています。

[24]紹介所販売システム

これもAccessで作成されたシステムをVB.NETに書き換えたものでした。お客様の要望を聞き、求職者の方々のスケジュールを視覚的に画面の表にして、ガンチャートもどきで表示できるようにしました。
私が、出掛けコーディングまで行った作業は、以上です。が、コーディングをやりながらシステムの性能設計、インタフェース設計、データベース設計もこなしてきました。そして、現場での調整作業も行い、稼動させてきました。貴重な経験を数多くしてきたと思っています。このような経験をこれからのJOBにも大いに生かして行きたいと思っています。

過去は変えられません。過去に学ぶことはできると思います。より良き未来のために過去に学びましょう。